「虚偽」

 

 

 

 

 だるい腰をかばいながら、ゆっくりと床に足を降ろす。

暖かい彼の腕から逃れ、帰るためにバスルームに向かう。

背後でカサリと音がしたから、きっとまた煙草を口にしているのだろう。

忍である以上、決して運動能力を落とすわけにはいかないだろうに、やめようとしな

い。

普段の彼からは想像もできないような、そう、それこそ『愚行』とでも呼べそうな自

虐的な仕草。

ジッと自分の背中を見つめてくる視線に堪えて、ドアを開けた。

髪と体を洗い、体内の彼の残滓を流して、一息つく。

暖かい湯を頭から受けながら、鏡で自身の体に跡が残っていないかを確認した。

鏡の中から、金の髪の、頬に筋のある子どもが見返してくる。

髪を掴んだ。

この髪が黒かったなら。いや、そうでなくても、こんな色でなかったならば、自分は

彼の側にいられたのだろうか。

頬を撫でる。

この筋がなかったなら。自分は彼を想うことを許されたのだろうか。

これは、証。

罪の証。

深く、深くため息を吐く。

このまま消えてしまいたいと思った。

だが、帰らねばならない。

自分に与えられた、あの牢獄へと。

自分が帰らなければ、彼が咎められるだろう。

ヘタをすれば、自分の見張り役として暮らしているあの男に消されてしまうかもしれ

ない。

自分に許されているのは、ただ、時折こうして彼に抱かれることぐらいのものなの

だ。

ほんの一握りの自由。

それだけを手に入れるために、随分とこの手を血に染めた。

任務という名の人殺し。

この手は、彼の手よりも血で赤い。

苦しくなることもあった。

もうイヤだと泣き叫びたい時もあった。

いっそ狂えたならと思ったこともあった。

だが………

目を閉じ、タイルに額を押し当てる。

彼が欲しかった。

そのために、本当に何でもした。

冷たい眼で自分を監視し続けているあの男を黙らせておくために。

ギュッときつく唇を噛みしめる。

強要された行為を思い出し、体が震える。

本当は、彼に抱かれた跡をいつまでも体に残し、わずかばかりの幸せを噛みしめてい

たいと思っているけれど。

自分に、それは許されてはいない。

男が自分に与えたのは、自分が上忍としての任務を終えるまでの、少しばかりの自由

時間。

男がこの里にいる間、自分は彼と個人的な会話を交わすことさえ許されていない。

帰りたくなかった。

ずっと側にいたかった。

側にいて欲しかった。

けれど、それを口にすれば永遠に彼を失うことになることもまた、自分はよく知って

いた。

帰りたくない、と怯える心を抑え込み、湯を止める。

ベッドに目をやると、彼はまだそこで煙草を吸っていた。

床に散乱した服を集め、身につける。

「じゃあ、帰るってば」

上着に袖を通しながら告げた。

彼は何も答えなかった。

その沈黙が怖いと思う。

もう来るな、と。二度と会わない、と。そう言われたらと想像して胸がつぶれそうに

なる。

「次は、いつだ?」

その言葉を聞く度に安堵する。

まだ次があるのだ、と。

彼がそれを望んでくれる限り、自分は正気でいられると思った。

けれど、それを口にすることは許されていない。

「さあ…分かんないってば。任務次第だってばよ」

言いながら、上着のチャックをあげた。

その間に、いつもの顔を用意する。

彼を哀れむことで嘲るような…そんな顔。

自分の一番嫌いな顔。

彼が、そんな自分から視線を外す。

ホッと息を吐いた。

見つめられていると、どうしても帰りたくなくなってしまう。

けれど、自分からそれを言うことははばかられた。

彼はきっと、深い心もなく自分を抱いているのだろうから。

一度も引き留める言葉を口にしたことのない彼のその言葉に、自分は恐れながらも焦

がれていた。

未練を残さないうちにと思って、少し早めに部屋を出ようと扉を開ける。

けれど。

「な………っ」

一瞬、どうなったのか分からなかった。

暖かい胸に抱きすくめられていることに気づいて、必死に抗う。

これ以上されれば、帰れなくなってしまう。

あの男の言葉を無視して行動すればどうなるか、簡単に想像がつくのに。

なのに………

「んぅ…っ」

押しのけようと突っ張っていた手を取られ、バランスを崩したところに口づけられ

た。

あぁ、と思う。

これで帰れなくなってしまった。

ここに捕らわれて、もうあの牢獄へと………地獄のような日常へと戻りたくなくなっ

てしまう。

これは夢なのに。

辛すぎる日々に唯一許された幻も同然なのに。

口内をなぶられ、煽られる度に胸が痛い。

涙がこみ上げてくるのを抑えることができない。

解放された時には、全身から力が抜けていた。

彼を望みすぎた自分に絶望した。

遠くから見ているだけにすれば良かった。

たまに、皮肉混じりに声をかけられるだけで満足しておけば良かった。

そうすれば諦められたかもしれないのに。

忘れられたかもしれないのに。

大きな手が頬を包み、顔を上げさせられる。

驚いたように枯れの瞳が見開かれるのを見た。

「なんで………っ!」

    そっとしておいてくれなかったのか。

「なんでこんな………っ」

       ことをしたのか。

聞きたくて。詰ってやりたくて。

自分のした行為が、自分をどんなに追いつめたのか。

どんな結末に繋がる道を選ばせてしまったのか。

知らないくせに。

知ろうともしないくせに。

「俺がっ、せっかく俺が…っ!」

言葉にすることのできない思いを、拳に込めて彼へと打ち付けた。

自分程度の拳では、彼に対したダメージを与えることはできない。

分かっているけれど、この胸の痛みの欠片でも与えてやりたくて彼の胸を打ち続け

る。

「せっかくっ、我慢して…っ、帰ろ…してんのっ、に…っ!」

涙で声が詰まって、うまく言えなかった。

声をあげて泣くこともできずに、拳を振り上げる自分を、彼が抱き寄せる。

「すまない」

そんな言葉が欲しいわけじゃなかった。

優しい手がすっぽりと自分を包み込んで、何度も髪にキスされる。

こんな時じゃなければ幸せなのに。素直に喜べたのに。

たとえソレを口にできなくとも。

「すまない…」

彼は、それしか言わなかった。

それ以上言わせたくなくて、自分から口づける。

触れ合わせているだけなのに、どうしてこんなにも離れがたいのか。

彼が欲しかった。

彼に自分を求めて欲しかった。

けれど、それがこんなにも苦しく、辛いものだとは思ってもいなかった。

苦い、キス。

これで自分達の関係は変わってしまうだろう。

けれど。

外からは、雨の音が聞こえていた。

せめて、この雨がやむまではこの心を殺さなくても許されるだろう、と。

 

 

 

 

 

そう思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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