淡夢

 

 

 

 その子が突然屋敷の庭先に現れたのは夏も本番間近という日。

いつもとは違う、濃紺の浴衣を着て。

いつもとは違う、儚い笑みを浮かべて。

そっと唇を開いた。

 

『シノ』

 

あの子の唇で綴られる自分の名は、何か特別なもののように聞こえる。

特に親しかったわけではない。

中忍試験に同時に合格したからと言って任務が重なることも滅多になく。

アカデミー時代と同じように、眩しいばかりの笑みを遠くから伺うことぐらいしかできなかった。

………いや、一度だけ。あの子と話をしたことがある。

その日のように、夏の夜。任務中の潜伏場所とされた森の中で。

ひらりひらりと舞う蝶を前に、あの子は「俺、アゲハ蝶が好きなんだってば」と笑った。

なぜ、と聞くことはしなかった。

あの子も、なぜ、と口にすることはなかった。

個人的な話をしたのは、それが最初で最後だったように思う。

けれど、舞う蝶を見つめるあの子の瞳は、自分の心を捕らえるには十分なもので。

側で滅多に見ることのない笑みを、自分ではない誰かに向けられるその笑みを、嫉妬も羨望もなく見つめる………それだけが自分に許された行為。

その筈だったのに。

この子は、どうして今、目の前にいるのだろう。

いつも見せている笑顔とは違う、今にも消えてしまいそうな笑みを浮かべて。

自分の心を捕らえたあの時と同じ瞳をして。

どうした、と静かに聞いてみた。

虫達にそうするように。

驚かさないように。

脅かさないように。

 

『お別れ………』

 

その子は告げた。

 

『お別れ、言いに来たんだってば』

 

縁側に座っているシノから丁度一歩分離れて。

その子はそっとシノに告げた。

 

『今夜、俺ってば死んじゃうから』

 

なぜ、と問いたかった。

蝶の話の時のように、聞かなくとも理解してやれたような気がしたわけではなく。

突きつけられたものの恐ろしさに、シノは口を噤んだ。

 

『そこ、行っても良い?』

 

言われ、頷く。

隣に座ろうとしたナルトを止め、膝の上で後ろ抱きに座らせた。

蜜色をした柔らかな髪が、シノの胸で揺れている。

自分のとった行動に自分で驚く。

だが、腕の中のその子は嫌がるそぶりもなく収まっていた。

 

『13と13の呪い、って言うらしいんだってば』

 

唐突に話始めたあの子に、戸惑いながらも頷く。

 

『術をかけられてから、13年と13ヶ月目に、死んじゃうんだってばよ』

 

自分の手が震えていたことを、腕の中のあの子に気付かれなかっただろうか。

きつく抱き締めると、そっと手が重ねられ、落ち着けた。

自分は、この話を聞かなければならない。

この子が自分に別れを言いに来たと言ったから。

この子が、自分にだけは聞いて欲しいと思っているから。

 

『先月、俺の誕生日だったってばよ』

 

それは知っている。

仲間達に紛れて、自分もプレゼントを渡したから。

手渡すことはしなかったけれど、せめて自分があの子が誕生した日に感謝しているということだけは伝えたかったから。

 

『俺ってばドベだから、二年アカデミー留年してるってばよ』

 

それも知っている。

初めて目にした時には、この子が自分よりも年上なのだということに衝撃を受けた。

自分よりもずっと小さくて。

自分よりもずっと活動的で。

自分よりもずっと好奇心旺盛で。

けれど、時折かい間見せる表情は確かに年上なのだと教える、大人びたそれで。

それに気付いているのがどうやら自分だけのようだということに、密かに優越感を感じていたから。

 

『だから、今日が14歳と1ヶ月目なんだってば』

 

そこで初めて、何故、と聞いた。

なぜ、自分のところへ来たのかと。

下忍時代の恩師である上忍のところではなく。

アカデミー時代の恩師でもあり、父親代わりのようだった中忍のところではなく。

下忍時代にスリーマンセルを組んでいたうちは一族のエリートのところでもなく。

 

『俺、シノが………』

 

そこで、一度あの子は言葉を切った。

そっと瞳を閉じて。

ゆっくりと開いて。

 

『シノが、好きだったから………』

 

ドクンッと心臓が一つ、大きく脈打つ。

けれど、すぐにそれは落ち着いた。

そして、別れを目の前にして、それを口にするその子を。

少しだけ、恨んだ。

 

『怒った?』

 

見上げるように顔を覗き込まれ、いや、と否定する。

ただ、少しだけ恨めしい、と正直に口にすると、淡く笑みを浮かべた。

 

『ごめん、ってば』

 

甘えるように自分の胸に顔を埋めるその子を、軽く抱き締める。

別れが避けられないものならば、この温もりを覚えておきたかった。

 

『天雷が………』

 

聞き慣れない名前に首を傾げる。

天雷。

そんな名前の人間がこの里にいただろうか。

 

『俺の中の、九尾のことだってばよ』

 

その一言に、頷く。

動揺することはなかった。

薄々感づいていたこともある。

だが、その子の腹の中に九尾がいようがいまいが、もうすぐ消えてしまう愛しい存在そのものへの痛みに適うはずもなく。

 

『天雷が、呪い解こうとして頑張ってくれたんだけど。封印されてる状態じゃどうしようもなかったみたい』

 

九尾のことを、天雷、と名で呼ぶ。

呼ばれる九尾に、少し胸が痛んだ。

 

『呪いは解けなかったけど。代わりに、俺のお願い、一つ聞いてくれたんだってばよ』

 

何を願ったんだ、と聞いてみた。

問うのではなく。

促すように。

 

『シノの側に、ずっといれますように………って』

 

ズキリ、と胸が痛む。

心臓に杭を打ち込まれたような激痛が、胸にこみ上げてくる。

なぜ、それを知るのが今夜なのかと。

なぜ、もっと早くに自分から何かが出来なかったのかと。

この子が、そんな健気な願いをわざわざ口にしなければならなくなる前に。

いても良いのだと。

それは、願いでも何でもなく、いつでも許されていたものなのだと。

伝えてやることができなかったのか。

 

『シノ』

 

名を呼ばれ、初めて自分が泣いていることに気付いた。

物心ついて初めて流す、涙。

それを小さな手で拭われて、たまらなくなる。

 

『キス、して?』

 

囁くように告げたその唇を、シノはそっと奪った。

花びらに口づけるように、そっと。

静かに重ね、離す。

好きだ、と告げた。

あの子はにっこりと笑って。

ことり、と自分の胸に頭を預けた。

 

 

 

静かに、その呼吸を止めて。

 

 

 

 

 

 

 

 

翌日、シノは息絶えたナルトを抱いて火影邸を訪れた。

火影は、シノの説明に笠を目深に被り、目頭を押さえた。

自分以外の誰も、ナルトの死の理由を知らされていなかった。

そのことに妙な幸せを感じる。

ナルトの葬儀の最中も、埋葬される時も、シノは泣くことはなかった。

感情を殺していたわけではなく、何も湧いてこないと言った方が正しかった。

ナルトの埋葬された墓の前で行われている葬儀を、シノは誰にも知られることなく抜け出す。

向かったのは、自分の家。

昨夜、ナルトがこの腕の中で息絶えた場所と同じ縁側に座り、何も考えることなく庭先を見つめていた。

 

ひらり…

 

視界の端にひっかかる、漆黒の羽根。

あの子の髪と同じ蜜色と。あの子が着ていた浴衣と同じ紺碧と。

あの子の瞳と同じ、碧。

 

そっと指を差し出す。

アゲハ蝶は、音もなくその指に止まった。

 

『キス、して?』

 

囁かれ、シノはそっとアゲハに口づける。

 

『シノの側に、ずっといれますように………』

 

あの子の声を振りまきながら、アゲハは指からシノの肩へと移った。

美しい羽根が、シノの頬を優しく撫でる。

 

 

 

 

 

 

シノは、眼を細めてアゲハを見つめた。

 

アゲハも、シノを見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ナルトの死後、シノの側を常に舞う一匹のアゲハ蝶が多くの里人に目撃された。

けれどその意味に気付く者は、一人もいなかった。

 

 

 

 

 

あの夜、幼い蜜色の髪の子どもが願った祈りは

 

確かに

 

 

叶えられたのだ

 

 

 

 

 

                          完

 

 

 

 

 

 

 

 

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