幸せの傷跡

 ザァッーっと音を立てて、朱色に濁った水が排水溝へ吸い込まれていく。ナルトは、それをぼんやりと眺めていた。

 やがて、水が本来の色を持たない透明へと戻っていった。ナルトがきゅっと軽い音をたてて蛇口を締めて水を止めると、切り裂かれた腕から赤い血がまた溢れてくる。

 やがてそれは腕を伝ってぱたぱたと白い洗面台に赤いしみを作った。

 溢れてくる血に、そっと唇を寄せてぺろりと舐めとってみる。

「…しょっぱいってば」

 舌先に感じる鉄の味が、なぜだか酷くしょっぱく感じた。













 幸せの傷跡













 ふと目を覚ますと日が昇り始めていた。

 ナルトは眠そうに目をこすると、んーっと背伸びをしてからベットを飛び降りた。腕に巻き付けていたタオルが、ぱさっと床に落ちる。

 ナルトはガシガシと頭を描きながら、めんどくさそうにそれを拾い上げた。赤黒くこびりついた固まった血液の感触が、ごわごわしていてナルトは眉をしかめる。そのままそれを洗濯機に入れ、ついでに適当に洗濯物もいれて洗濯機を回し始めると、ばしゃばしゃと顔を洗った。

 顔を拭いてるときにちらり、と昨日はぱっくりと割れていたはずの傷跡に目が入る。うっすらともう消えそうになっている傷跡を撫でて、きり、と爪を立てた。

 ぎりぎりと爪が腕に食い込む。そのままがりっと引き下ろすと赤く、三本の線が浮かび上がった。ほんのりと薄く血があふれてきてナルトははっと我に返る。

 慌てて服に着替えてから、朝食の用意をする。とはいっても、手のかからない簡単な、質素な朝食を済ませると、散らかった部屋を掃除し始めた。

 それは、たとえば点々とつづく血の後だったり、消毒液をつけた血の付いた脱脂綿だったり。放りっぱなしにしておくのは絶対にできなかったから。

 黒いゴミ袋にそれらを入れてから、さらにそれを新しい袋に放り込んだ。

 そうこうしているうちに、ぴーっと音を立てて洗濯機の動きが止まる。

 食事を中断して、ナルトはぱたぱたと洗濯機へ駆けていく。ふたを開けるとさっきまで赤く染まっていたタオルが、きれいな白に戻っていた。

 それに安心したように、ナルトはほっと息をつくと、洗濯したものを干して任務に出かけていった。













「ナルト、そのひっかき傷どうしたの?」

「え?」

 川のゴミ拾いの任務中になにも考えずに腕まくりをしていたら、サクラにそんなことを問われた。

「これ、結構深いわね」

 ナルトの腕に走った三本の爪痕をサクラは指さした。

「痒かったから、思い切りかいたら血が出てきちゃったんだってば」

 と、言いながらナルトはぼりぼりとひっかき傷のある場所を掻いた。確かに今はかさぶたができていて少し痒かったからちょうどよかったかもしれない。

「ダメよ、掻いちゃ。傷が残るわよ」

 かさぶたがはがれて、血が出てきたのを見たサクラがナルトの手を止める。

「また血が出てきてるじゃない」

「大丈夫、すぐふさがるってばよ!」

 そう言って笑うナルトにサクラはもう、とつぶやいた。そんな二人のやりとりをカカシはだまって眺めていた。

 ナルトがつけたひっかき傷に交わるようにうっすらと残っている傷跡。それは決して引っかかれた傷などではなく、鋭利な刃物で切り裂かれた跡。

 いつも笑顔でいるナルトには似つかわしくない、傷跡。

 それが気になって、カカシは任務の帰りがけにナルトに声をかけた。

「ナルト、その傷どうしたの?」

 一人になったナルトに、カカシは声をかけた。

「さっきサクラちゃんとも話してたんだけど、思い切りかきむしったらこんなになっちゃったんだってばよ」

「いや、そっちじゃなくってね、その下の傷」

 そっとナルトの腕をとって、カカシはその傷跡を指さした。ぎくり、と一瞬ナルトの体が震えた。それに気づかなかったふりをして、ナルトの顔を横目で窺うとナルトは少し青ざめて、気まずそうに傷から視線をそらしていた。

 その反応を見て、カカシはナルトが自ら自分を傷つけたのだとカカシは確信する。

 はぁ、とカカシは重くため息をついた。ナルトはそのカカシの反応にびくり、と体を震えさせる。

「……もうやるなって、あれほど言ったよね?」

 いつだったか、ナルトが腕を切りつけていたのを見つけたとき、それをとがめると、もう二度としないと泣いて言っていたのに。

 初めてナルトが手首にクナイを当てて腕を切り裂いているのを見たときには血の気が引いた。気がついたら、思わずナルトの頬を叩いていて、クナイを落としたナルトが呆然と自分を見ていた。ナルトの頬を叩いたのは後にも先にもあれ一回きりだったから。

 普段は、恋人としてべたべたに甘やかしている自覚がある。甘える、なんてことを知らなかった子供だから、せめて自分の手の中では甘やかしてあげようと思って。なのに、あのときは瞬間的にナルトのことを叩いていて、クナイが床に落ちた音がしたときようやく我に返った。打った頬を押さえたナルトが呆然と自分を眺めていた。どうしようもない焦燥感が心を支配して、自分でもコントロールが聞かなかった。どんな顔をしていたのかだって覚えていない。

 もう二度とやるなと言った自分に対してごめんなさいと、謝りながらナルトはもうやらないと言ったのだ。

 けれど、ナルトはその約束を破ったのだ。なにがナルトをそうさせるかわからなかったけれど、カカシはやりきれないような思いで口を開いた。

「なんで、そういうことするかなぁ…」

「…っ」

 なんで、と言われてもナルトに答えることはできなかった。ただ、うつむいて唇をかみしめるだけで、カカシの目すら見ようとしなかった。

「ナルトは、俺を一人にする気なの?」

 そう言って、かつて自分を一人にした男を思い出した。カカシは思い出した男の影を振り払うように軽く頭を振った。。

 ナルトは、父とは違うのだから。

「俺は、カカシせんせーとずっと一緒にいたいってばよ」

 一人になんて、しないってば。

「じゃあ、もうやめてよ。お前が自分を傷つけるところなんてもう見たくないんだからさ」

 ね?とカカシはナルトの顔をのぞき込んだ。浮かない顔をしてナルトはうん、と小さく頷く。浮かない顔をしているのが気になったけれど、これ以上気まずい空気になりたくなくて、カカシはナルトの手を取って歩き出した。

「一楽、行こうか?」

 カカシの問いかけに、ナルトはまた小さく頷いた。さっきよりは少し嬉しそうに。でも









 少しだけ泣きそうに見えた。













 幸せなんだと、ナルトは思った。

 ぎこちない仲直りをして一楽に行ったあと、ナルトは送っていく、というカカシの言葉を断って一人、家に帰りながら考えていた。

 自分を傷つける理由なんて、ただ一つなのだ。カカシと一緒にいたいから。

 がっ!とナルトの頭に石が飛んでくる。鈍い痛みにナルトは顔を一瞬しかめるが、なにもなかったような顔をしてそのまま歩き始める。

「お前は幸せになんてなるべきじゃないんだっ!」

 そう叫ばんだ人間がいて、もう一度ナルトに石を投げつける。放たれた石はまたナルトに当たって、今度はナルトの頭に傷を作った。つぅ、と血が滴るけれどナルトはそれにまったく反応せずにただ、家へ向かう。

「お前はもっと、傷つかないといけないんだよ」

 その言葉が、ナルトの心に影を作った。



 傷つけば、幸せだと思うことを許してくれるんだろうか。

 

 もう一度飛んできた石が頭にあたると、ナルトはその言葉を発した人物に向けて視線を投げかけた。憎しみにぎらついた目でナルトを見ている。

 幸せになることなど許さないといった目。

 けれど、自分は今カカシの傍にいれてとても幸せで。目を合わせることができなかった。

 ナルトはその男から視線を外すと、反射的に走り出した。

 早く、早く帰らないければと、ナルトは一心不乱に走った。がちゃがちゃ、とせわしなく鍵を開けて、部屋に入る。汗だくになっていたのでジャケットを脱ぎ捨ててナルトは机の中に入れていたカッターを手に取ると、それを思い切り突き立てた。

 いつものような軽く肉を裂く痛みとは比べものにならないほどの痛みが生まれる。刃先を腕から抜くと、じわり、と血が流れてくる。次々にあふれては、ぱたぱたと床に血の跡を残した。

 暖かい血の感触が腕を濡らすと、ナルトの目から涙があふれてきた。

 カッターを突き立てた腕は熱を持って痛みを訴えている。

 痛くて、痛くて。けれどそれじゃ足りなくて。ナルトは再び、肌に刃先を滑らせる。一度傷つけてしまったら、もう自分を傷つける手は止まらなくて痛みなど感じる間もなく何度も何度も傷を付けていた。

 床には赤い血溜まりができていて、それはまだ広がっている。

「ナルト!なにしてるの!?」

 声がして、それでもナルトは自らの腕を切りつけていた。

「やめるって言ったのに…っ」

 カカシはナルトからカッターを取り上げると、正気をなくしているようなナルトの頬をぱし、と軽く張った。取り上げたカッターを投げ捨てると、からからと音を立てながら部屋の端まで転がっていった。

「どうして…?」

「だって…っカカシせんせーと、一緒に…っられなくなるじゃん」

「自分のことを傷つけるのと俺が、なんの関係があるの?」

 涙を流すナルトの肩をゆさぶってカカシは聞いた。どうして、自分といることにナルトが自らの体を傷つけないといけないのだと。

「俺さ、カカシせんせ、と一緒にいれるのがすごい…幸せで」

 ぐすっ、と鼻を啜りながらナルトは言った。涙に濡れた顔は幸せそうに微笑んでいた。

「けどさ、俺は幸せでいちゃ…っいけないんだってば」

 とん、とカカシを軽く突き放して立ち上がると、今度はクナイをいれているホルターから一本クナイを引き抜いた。

 カカシが止める間もなく、ナルトはまた新しい傷をつける。何度も、何度も。カカシはその光景を呆然と見ていた。昔、同じような言葉を聞いた気がする。ナルトのように泣いてはいなかったけれど、瞳は今のナルトと同じようにどこか追いつめられたようだった。

 両手が真っ赤に染まると、ナルトは血で濡れたクナイを床に落とす。











「……幸せだと思うなら、傷つかないといけないんだってば」











 カカシといれて幸せだと思えるなら、どんなに傷ついたってかまわない。体中傷がついてもかまわないのに、どれだけ傷をつけても治ってしまう己の体が恨めしくて仕方なかった。





 傷跡なんて、一つも、残りやしない。





 泣きながら笑っていたナルトの顔が崩れた、床に座り込んでぽろぽろと大粒の涙を床に落とす。

 そんなナルトを見て、カカシは血が付くのもかまわずぎゅっとナルトを抱きしめた。そんなことを思うほど追いつめられているナルトをわかってやれなかった。なにか代価がないと、幸せになってはいけないと思っていたナルトが痛くて。 

 けれどこれ以上、ナルトが、自分を傷つけることを黙ってるつもりはなかった。傷つけて、傷つけて、最後の最後まで追いつめられた果てには、なにも残らないのだから。

 …かつては、自分を残して逝ってしまった父親のように。自らを追いつめてた先にはきっと死しかない。あるいは、自分のことを傷つけるのに疲れ切ったナルトが、自分への思いを棄ててしまうかもしれない。

 ナルトの体は傷が残らなくても、心には確実に傷がついているのだ。深くて、癒えることのない傷が。

 カカシは、そっとナルトから体を離すと、床に転がっているクナイを拾ってから、ナルトに手渡した。

「幸せだって、思っていいよ」

「え?」

「けど、自分のことを傷つけるのはなしにして」

 そう言って、カカシはナルトがクナイを持っていた手を握ると、それで自分の腕をナルトの手で切らせた。

「…っっ!」

 ばたばた、と勢いよくしたたり落ちるカカシの血に、ナルトは顔を青ざめさせる。

「…ナルトの傷は、俺が引き受けてあげる」

「いくらでも、傷つけていいから」

 ひっく、とナルトは嗚咽を漏らしてクナイを床に落とした。





「だから、幸せだと思っていいんだよ」





 ナルトの顔が歪んだ。なんでこの人は自分を傷つけることをいとわないのだろうかと。



 血がついた腕でカカシを抱きしめた。まだふさがらない傷が痛んだけれど、そんなことはかまわずに。

 痛みも幸せだと思う罪悪感もなくただ幸せそうにナルトは微笑んでいた。



























若干痛いです。         
          


カカシはナルトのためならどれだけ傷ついてもナルトを愛してると思う。

2005/04/23