「カカシせんせー」
見上げて、ナルトは手を伸ばしながら呟いた。
見上げた先にはぽつり、とひとつ窓があるだけだ。窓の向こうには夕暮れの色に染まっていく空があった。
「カカシせんせー」
抱きしめてもくれないカカシの幻に、ナルトはもう一度呼び掛けて、静かに目を閉じた。
幸福な世界
気がつけば暗い部屋にいた。
なにもない真っ暗な部屋にはぽつんと窓があるだけでほかにはなにもなかった。
窓の外はやはり真っ暗で今はきっと夜なんだろうとナルトは思った。
そのまま、部屋の隅に丸くなる。
「寒いってば…」
吐く息は白く、ナルトはぶるっと体を震わせる。
冷たいコンクリートに覆われた部屋はとても冷え切っていて、手や足の先が冷えきって感覚すらなくなりそうなほどだった。
冷たいのは体だけじゃない。心の中も寒々とした空気が張り詰めているようで胸が痛かった。
かしゃん、と格子の外で物音がした。はっとしてナルトは視線を向けてみる。
「カカシせんせー…」
ナルトの呼び声に、男はいささか眉を顰めながらも、無言で食事の入ったトレイをナルトの前に運んでくる。
「俺、なんでここにいんの?」
「ずっとここにいないといけないんだってば?」
「もう、外には出れないの?」
「もう…」
「暴走しかけたんだから当たり前だろ?」
矢継ぎ早に質問をしてくるナルトの言葉を、男が吐き捨てるように遮った。
そのまま、ナルトに背を向けて男は出ていく。
「カカシせんせー…」
突き付けられた言葉に、ナルトはじんわりと涙が浮かんでくる。
否、きっと言葉ではない。突き付けられたのは胸をえぐられるような殺意。
冷たくナルトを見下ろす瞳はここにくる以前のカカシの目ではなかった。
『好きだよ、ナルト』
『愛してるよ…』
そう言われて抱きしめられた思い出はもう遠い昔の出来事なのだ。
抱きしめてくれるあの手はもうない。
あるのは、冷たい瞳とあの殺意だけ。
「カカシせんせー…」
それでも、カカシのことが好きでたまらなくて、嫌われても憎まれても愛しくてたまらなくて。ナルトは膝を抱え込むようにして丸くなる。
そうして、いつの間にか淡い夢の中に落ちて行った。
アスマは一人で酒場で酒を呑んでいた。
普段、気軽に酒に誘えたカカシは今はいない。全く酔えない酒の味に嫌気がさして、一気に呑んでいた酒を呷ると「勘定」と短く店主に告げた。
「あいつ、また化けギツネの世話させられてんのか?」
ふと、そんな会話がアスマの耳に飛び込んできた。
化けギツネというのはおそらくナルトのことだろうと、アスマは聞き耳をたてる。
「おう、なんでもさ、なんかあのガキ、食事持って行く度にカカシ上忍の名前呼ぶらしいぜ。狂った人形みたいに「カカシせんせー」ってさ」
「その話、本当か?!」
げらげら笑いながら話す男たちのテーブルに詰め寄った。
「あ?あぁ。なんかうずまきナルト世話してるやつが言って…」
アスマの顔を見るや否や、顔を青ざめながらナルトのことを口にする。
化けギツネなんて言ってナルトを貶めていたことを聞かれてマズイと思ったからだ。
けれど、アスマは男の言葉を聞くとくそ、と短く舌打ちをして慌てて店を出ていく。
もちろんナルトのことを貶めていた奴らのことはゆるせなかったが、それ以上にナルトのことが心配だった。
あの男たちが言ってたことが本当かどうか確かめなくてはならない。
カカシは今はいない。任務に出るカカシにナルトのことを頼むと言われていたのに、ナルトが幽閉されることになってしまったのは一部、ナルトを執拗に憎んでいた里のヤツらと自分の責任だ。
アスマに頭を下げてくるなんてことがなかったカカシが珍しく頭を下げてナルトを守ってくれと頼んできた。
最近ナルトの命を狙う輩が妙に増えてきたから、と。
いくら成長が目覚ましいと言っても、やはりナルトはまだ下忍で、本気で命を狙ってくる連中に太刀打ちはできない。
カカシはそんな連中をナルトに知られないように始末してはいたが、任務が入りナルトの側を長時間離れなければならなくなったのだ。
他の人間を、と最初にカカシは上にかけあったのだが、依頼相手のほうがカカシを指名してきているとの一点張りで、カカシは渋々任務に赴いた。
ナルトを一人、里に残して。
カカシが任務に行っている間だって、ナルトは命を狙われるかもしれない。だからカカシはアスマにナルトのことを頼んだのだ。
けれど、狙われたのはカカシだった。ナルトを殺すにはカカシは邪魔な存在だったから。
当初は動けなくなる程度に痛め付けるという予定だったのだが、カカシの抵抗は計画した人間たちの思惑よりも激しかったようで、思わず致命的になる傷を負わせた。
それが、つい5日前の出来事。おそらくもう生きてはないだろうというのが計画した人間たちの考えだった。
計画した者たちを捕らえて、事件が発覚したのは、4日前。ナルトが幽閉されたのも4日前になる。
事件を知った里の上層部が先走り、ナルトにどういうことだと詰め寄った。ナルトは一瞬目を見開いた後、ぶるり、と体を震わせたかと思うと、その力の全てを解放した。
カカシが、自分の命を狙う者たちに傷つけられたこと。
その狙っていた者たちが木の葉の里の人間だったこと。
何も知らずにただ、カカシに守られていた自分に、いいようのない怒りが沸き出でてきて。
九尾を解放するまでには至らなかったが、暗部が7,8人がかりでナルトを押さえつけ、幽閉したのだという。
ただ、ナルトの危険性を危惧しただけじゃない。幽閉することで、ナルトの命を守る意味もあったのだ。それにしても、いい意味で命を守るという訳ではなかったけども。
ナルトが幽閉されているという地下の牢に、アスマはようやくたどり着いた。
封印の札を無数に貼ってある牢に、ナルトはいた。
体を小さく丸めて、寝入っているのだろうか。そっとアスマはその牢に近づく。
かしゃ、と格子に手を絡めたときに音がした。ナルトの体が、ぴくり、と身じろぐ。
そっと目を開けたナルトに光が宿った。
「カカシ、せんせー」
夢を見ている見たいな瞳で、ナルトはアスマを見て呟いた。
「ナルト…?」
そうアスマが呼びかけると、ナルトは頼りない足取りでアスマの方に近づいてくる。
「カカシせんせー」
格子越しに、ナルトはアスマに向かって手を伸ばす。
今のナルトの瞳には、アスマはカカシとしてしか映っていなくて、ナルトは焦点の合わない瞳でアスマを見つめる。
「違う、だろ。カカシはもういないんだ」
その言葉に、アスマの顔に延ばしてきたナルトの手が寸前でぴたり、と止まる。
そしてナルトは悲しそうに顔を歪めた。
「カカシせんせー…」
うわごとのように、ナルトは呟いた。ガラスのような瞳はただ空虚で、何も映していない。その瞳から一筋、涙がこぼれ落ちた。
「カカシは、死んだんだ」
「ちがう!カカシせんせーは…!」
死んでなんて、いない。
その言葉は口に出来なかった。
『死』なんて言葉を口にしてしまったら、本当はもういないのに、自分がそれを認めていないだけのように思えて。
「ナルト、カカシは……」
「いやだ…!」
聞きたくない。
カカシの姿が急に薄れてきて、ナルトは瞳を閉じる。
瞳を開ければ、きっとカカシはいると、そう信じてナルトは瞳を開いた。
「ナルト」
鼓膜を刺激する甘く、優しい声が聞こえた。
瞳を開けた先には、確かにカカシの姿があって、ナルトはぼろぼろと涙を流す。
「カカシ、せんせー…!」
ナルトの視線は、アスマを通り過ぎていた。はっとしてアスマが後ろを振り向くと、そこにはいないはずのカカシが立っていた。
「ナルト」
ゆっくりとした足取りで、カカシはナルトの方に歩み寄る。そして倒れ込むように格子越しにナルトを抱きしめた。
「カカシせんせー…っ」
抱きしめてくるカカシの胸にナルトは思い切りしがみついた。
「ごめんね、かえってくるのが…遅く、なって」
ナルトを抱きしめながら、カカシは耳元で囁いた。
ナルトは言葉にならずふるふると首を振る。
アスマも、その光景を信じられないという風に見ていた。5日も前に致命傷を負って生きて帰ってくるなんて、執念としか言いようがない。
「ナルト」
カカシが名前を呼ぶと、ナルトはふっと顔を上げる。
カカシの優しげな瞳がナルトを映しているのが目に入った。それを見てナルトは安心したように微笑んだ。
「…愛してるよ」
「俺も、カカシせんせー大好きだってば」
そう言って二人は再び抱き合った。カカシはナルトの首筋に肩を埋めて、ナルトは、カカシの胸に肩を埋めて。
二人ともとても幸せそうにお互いに体を預けていた。身じろぎも、しないほど。
「……おい?」
微動だせず、互いを抱きしめあっている二人を見て、アスマは思わず声を掛ける。けれども、やはり二人はぴくりとも動かない。
嫌な予感がして、アスマがカカシの肩に手を置いたとき、二人の体はぐらりと体が傾いた。
音を立てて倒れるカカシの服には、深い刀傷があって、血が服を真っ赤に染め上げていた。
「カカシ…?!…っナルト!」
二人は、抱きしめあったまま息絶えていた。カカシは、付けられた刀傷がやはり致命傷で、ナルトは耐えられないほどの力を放出し、さらに食事もそうとっていなかった。暗く隔絶された部屋に閉じこめられて、ナルトの躯はどんどん衰弱して行っていたのだ。
けれど、二人は幸せそうに微笑んでいる。
倒れたあとも二人の手はそっと重ねられていた。
息を引き取った二人を見て、アスマは悔しそうに己の額に手を当てた。
これが、二人が望んだことなのかと。
カカシもナルトも互いの傍を死に場所にして幸せだったのかと。
それは、アスマがいくら考えても、物言わぬ二人に問いかけてもアスマにはわからないことだった。
けれど、それで幸せだったのだ。
他人には分からなくても、互いの傍で逝くことが出来て。
互いのぬくもりを感じながら逝くことが出来て。
だから幸せそうに微笑んで、死してもまだ、その手を重ね合って。
二人にとっては悲しい死なんかじゃない。
これ以上ないほど、幸せな死だった。
たとえそれが、二人だけの世界だったとしても。
終