Ring





 かしゃっ、となにかが床へ落ちる音がしてナルトは浅い眠りから目を覚ました。音がした方に視線を向けると、自分の目の色によく似ている青いガラスが填め込まれたおもちゃみたいな指輪がぼやけた視界に飛び込んでくる。
 ナルトはのろのろと屈んでその指輪を拾い上げた。指輪には鎖が通してあり、普段はそれを首からかけて持ち歩いてる。指にしてしまえばどうしても目に付いてしまうから。
 虚ろな目でナルトはその指輪をじっと見つめた。欠けた青いガラスがきらきらと光ってナルトの目を射す。そのせいだろうか、目頭が熱くなって視界がぼやけた。
 鎖を外してナルトは指輪を左手の薬指にはめた。かつて、一番愛した人がそうしてくれたように。そのときの光景を思いだしてしまい、ナルトはさっと指輪を指から引き抜いて机の上に放り投げた。軽い音を立てて指輪が転がっていく指輪を苦々しい表情で見つめる。そして、ナルトは指輪から目を逸らすように机の上に突っ伏した。
 未だに捨てきれない思いと、壊れた指輪。
 いっそ、このまま放置していれば誰かが捨ててくれるかもしれない。そう思いながらもナルトは放り投げた指輪を掌で包んだ。痛みを伴うくらい、きつく指輪を握りしめる。それとは比べものにならないほど胸が痛んだ。こみ上げてくる熱いものを唇を噛みしめて必死で耐えようとするが、一度頭を過ぎった思い出は、決して消えてはくれない。それどころかあの人と出会ったころからの思い出が蘇ってきて止まらなくなる。
 ぽろり、とナルトの瞳から涙が零れ落ちる。それと同時に、会いたいと乞うような思いに駆られながら愛しい人の名前をナルトは呟いていた。

「カカシせんせー…」















「ナルト、俺結婚することになったから」
 久しぶりの休日を、二人で過ごしていたときのことだった。いつものようにだらだらと部屋で過ごしているとカカシが思いだしたように口にした言葉にナルトは軽く目を見開いた。
「…え?」
 聞き間違えかと思い、一瞬の間をおいてナルトはカカシに聞き返す。
 確か、自分たちの関係は恋人同士だったはずだ。自分の思い違いでなければ。
 何度も囁かれた愛の言葉が急に信じられないものになって色褪せていく。今まで過ごした日々が夢だったかのように思えた。
「だからさ、俺結婚しなきゃなんないの」
「…あ、そう。わかったってば」
 やはり、聞き間違えではない。なにも考えることができなくて、思わず理解したような言葉を口にしてしまう。
 さっきまで二人の間に流れていた穏やかな空気は張りつめたものに変わっていた。いや、そんな空気を感じているのはナルトだけだったかもしれない。カカシの表情は普段と変わりなく、言うだけ言うとすぐに先ほどまで読んでいた本に視線を戻した。
 カカシの結婚。二人にとっては重要な話のはずなのに、カカシの今の調子では天気の話をしているみたいだった。
 カカシはそれ以上なにも言うことはなかった。別れの言葉すら言う気はないのだろうか。
 いつか別れるときが来るかもしれないと思ったことはたくさんあった。喧嘩したり、会えなかったりしたときや、普段カカシと過ごしているときでさえ。ずっと一緒にいれる、なんて思ったことが無かったといえば、それは嘘だ。
 けれど、心のどこかでずっと一緒に生きていけると思っていた。あんな話を聞かされた今でさえその思いは、願いは、消えてくれない。
 だから別れの言葉が必要なのだ。それですっぱりと諦めることはできないだろうけど、自分の中でけじめが付くような気がした。ただの上司と部下の関係に戻るのだ。
 二人で過ごした時間もいつか思い出に変わっていくかもしれない。当分は、きっと引きずるだろうけど、感情を露わしない方法をナルトは知っている。どんなに辛くても笑っていられる。泣きそうになっても、きっと笑っていられるはずだ。
 それがカカシの幸せを妨げない唯一のことだと思うから。
「カカシせんせー」
 カカシが言わないのなら、言えないのなら自分から言ってしまうほうがいいのかもしれないとナルトは口を開く。
「ん?なーにナルト。お腹空いた?」
 的はずれな問いかけをしてくるカカシにナルトは苦笑いを浮かべた。
「ううん、今日は帰るってば」
「そう、残念」
 と、少しも残念そうじゃない口調でカカシは呟いた。心なしか嬉しそうに見えるのは気のせいだろうか。損なことを思って、ナルトの胸がちくりと痛む。
「カカシせんせー」
 今までありがとう、と言いたかったのに、喉の奥につかえた見たいに言葉が出てこない。
「うん?」
 普段と変わらないカカシの微笑みに、先ほど感じた胸の痛みがじくじくと膿んでいくように広がる。 
「…帰るってばよ」
 そうナルトは言うとのろのろと立ち上がる。すでに視線をカカシに向けることすらできなかった。
「また明日ね、ナルト」
 そう言われてナルトはチラリとカカシの顔を見た。カカシはいつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべている。そのカカシの笑顔が、とても遠いものに感じた。昨日とは気持ちも、状況も全く違う。
 昨日帰るときは少しでも一緒にいたかったからなんだかんだ理由を付けて帰る時間を引き延ばしていたのに、今日は一秒でも早くカカシの家から出たかった。カカシの存在を感じないところに行きたかった。
 ナルトは立ち上がると足早に玄関へと向かっていく。きっともうここに来ることもあと数回だ。もう少し心の整理がつけばきっとさっき言えなかった言葉だって言える。もしかしたらもう少しすればそれはカカシの方から言われるかもしれないが、いつもと変わらない笑顔で「さよなら」を告げられることを想像して胸が抉られるように痛い。
 きゅ、とナルトは胸の当たりを掴んだ。こうやって押さえていないと今にも涙が溢れてきそうだったから。
 けれど泣きそうな自分がいる反面、絶対に泣くもんかと思っている自分もいた。
 泣いたからと言ってカカシが受け入れている結婚の話がどうなるとも思えない。きっと泣いてもカカシを困らせるだけだ。
 諦めきれない思いは心の中にあったけれど、それを必死に押し殺しながらナルトは家路についた。大丈夫だと自分に言い聞かせながら。
 ひゅ、と冷たい風がナルトの顔の横をすり抜けた。はっとしてナルトが顔を上げると年老いた男がナルトの前に立ちふさがっている。そして、ナルトの回りを数人の忍がナルトを囲むように取り巻いていた。
「…なんだってば?」
 怪訝な顔をしてナルトは問いかけた。自分を取り巻いている忍たちはおそらく暗部だろうが、暗部に取り囲まれなければならないようなことをした覚えはない。けれど、どこか緊張した雰囲気の彼らにナルトも身構えずにはいられなかった。
 今日は誰にも会わずに帰りたかったのに、とナルトは心の中で呟く。
「カカシとの別れはすんだのか?」
 カカシ、という名前が老人の口から出たことにナルトの体がぴくりと震えた。そして紡がれた言葉に驚きを隠すことができず目を見開く。
 ナルトの前に立ちふさがった老人は今にもナルトを射殺さんばかりの目で見つめていた。一件無表情に見える老人の瞳の奥に憎しみと侮蔑の色がはっきりと見えている。こんな感情を向けられることは少なくはなかったけれどいつまでたってもその感情に触れることに慣れることはできない。
「お前を里から追放する」
「…何を」
 言っているんだ、とそう言おうとした瞬間ナルトの言葉を遮るように老人は口を開く。
「お前の存在はカカシにとって不利益にしかならぬだろう?」
 その一言にナルトは言葉を失う。それは自分なりには分かっていたが、他人に言われることがこんなにも鋭く心に突き刺さるとは思っていなかった。立っているのが精一杯でナルトはそれを堪えるように自分の体を抱きしめた。
「明日にでも里を出てもらう。荷物をまとめておくのだぞ」 
 その言葉にナルトがはっと顔を上げるとすでに老人や暗部たちの姿はなかった。明日なんて、とても無理だ。荷物の整理をすることはおろか、心の整理だってできそうにない。ましてやカカシに別れを告げることですら、きっとできない。
「カカシせんせー」
 助けを求めるようにナルトはカカシの名前を呟いた。けれど、そんなナルトの想いも、声も決してカカシに届くことはない。
 きらり、と左手の薬指に嵌めている指輪が光った。いつだったか、カカシから貰った指輪。それを見るとまた、胸が締め付けられて仕方なかった。