たのしい歌を。
しあわせな歌を。
かなしい歌を。
ゆめの歌を。
あいの歌を。
最後にこの恋の歌を。
例え、あなたに届かなくても。
目があったのは、ほんの一瞬。
小さな場末の酒場ではだれも歌なんて聞いていない。
けれどこの酒場の歌姫はただ歌い続けていた。少し耳を傾ければ、心に染みわたっていくような優しい歌を。
その声の心地よさに思わず笑みを浮かべてしまうほどだった。
酒を飲み大声で話す男たちの声も、グラスを置くような小さな音もなにもないように、すぅっと歌だけが鼓膜を刺激する。
自分だけに聞こえるような歌だった。
誰にも会いたくなくて、誰にも話し掛けられたくなくて、知り合いが絶対に来ないような店に入ってみたものの、うるさすぎて辟易し、出ようとした矢先、彼が現れた。酒場にしては派手じゃない装いに、客の体の影に隠れてしまうような小さな体。
どこのガキが迷い込んだのかと最初は思って、気にも止めずに出ようとした瞬間、目が合った。
椅子を立とうとする自分に向かって彼は微笑んだ。ただそれだけで足を止めていた。そして歌が終わる頃にはすっかりまた椅子に座っていた。
ありがとうございました。と聞いてもいない連中に丁寧にお辞儀をしてから、彼は得意げに視線を自分に向ける。
やはり、それも一瞬だけですぐに彼は店の裏へと消えて行った。
「ねぇ、今歌ってた子、名前なんて言うの?」
誰とも話したくなかったはずなのに、自然と店のマスターに話し掛けていた。
「珍しいですね。歌を聴かれてる方がいるなんて。あの子の名前は…」
マスターはそこで答えを途絶えさせて、ちらりと視線を男のうしろにやった。
「ナルト、だってばよ!」
不意に声をかけられて、カカシははっと後ろを振り向くと、そこには今までステージで歌ってていた少年が立っていた。
先ほどよりも目立たない服装に着替えていて、彼は静かに横に座った。
「イルカせんせー、牛乳ちょーだい!」
酒場には似つかわしくない注文だったが、直ぐさまナルトの前に牛乳が注がれたグラスが置かれる。
「…ぷはー!!やっぱ歌ったあとはこれに限るってばよー!」
グラスの中身を一気に飲み干すと、ナルトは勢いよくグラスを机に置いた。飲んでるものこそ牛乳と酒という違いはあるが、そのへんで飲んでいる連中と変わらない仕草に、カカシは思わず吹き出してしまう。
「先生?」
「その子に歌を教えたのは私なんですよ。こうやって小さな酒場のマスターになっても呼び名は昔のままなんです」
穏やかに微笑みながらイルカはおそらくカカシの抱いている疑問に答えを返した。
「おっちゃんの名前は?」
口の周りに白い髭のように牛乳のあとをつけて、ナルトはカカシに問い掛けた。
「おっちゃ…あのネ、俺まだ26だよー。お兄さんと言いなさい」
「そうだぞ、ナルト。それにお客様に向かっておっちゃんとはなんだ。おっちゃんとは」
すかさず二人から厳しい指摘があると、ナルトは大人しくごめんなさい、と頭を下げた。そんなナルトの素直な態度にイルカは満足げに笑みを浮かべ、よしよしと頷いている。
「俺のことはカカシでいいヨ」
「カカシ?」
「そ。また来るからよろしくネー」
そういうとカカシはちゃりん、とお金を置いて席を立った。
去り際にさりげなくナルトの頭を撫でるのも忘れずに。
「じゃあね、ナルト」
ひらひらと手を振ってカカシは扉の外に消えて行った。
「…また、ね」
『また来るよ』そんな言葉を残して来ないヒトたちなんていくらでもいる。
きっとカカシもそのうちの一人なんだと思うと悲しいような気分になって、ナルトはぽつりと呟いた。
期待なんてしちゃいけないのに、ナルトの心は勝手に期待してしまっている。
初めは訝しそうに見ていた眼差しが次第に優しげな眼差しにかわって行った。
その光景を目の当たりにした瞬間、自分の視界にはあの人しかいないように思えた。今日はただあの人のためだけに歌っていた気がする。自分の歌であんな顔をしてくれる人がいることが嬉しくてたまらなかった。
「…ナルト、今日はもう休みなさい」
まばらになった人影を見て、イルカは外のプレートを『CLOSE』にしてナルトに言った。今日は普段よりも営業時間が短いように思える。
「ウン。でもいいの?」
「あぁ、早く休んで明日もいい歌を歌うんだぞ」
もしかしたらまたあの人が来るかもしれないだろう?
小さな声でイルカはナルトにそう告げた。告げられた瞬間、ナルトの顔は真っ赤に染まる。それがどうしてか、なんていうのは言葉には出来ないけど、イルカにそう言われたことがとても恥ずかしくて、むずがゆかった。
「…っお、おやすみなさいってば!」
顔を真っ赤にしたままばたばたと駆けていくナルトをみてイルカは微笑んだ。
そして少しもの悲しそうな顔をして拭いていたグラスを机に置く。
悲しい、という感情とは違う。すまないと、悪かったというような表情だった。辛そうに眉を顰め、それでもよかったと安堵する気持ちはある。
何故そこで安堵するか、それはイルカだけの秘密だった。客はもちろんのこと、ナルトにだって言うつもりはない。
ただナルトがそこにいて幸せそうに歌って、笑って、誰かを愛して。普通の子供とは少し違った人生になるが、それでも普通に幸せになって欲しかったから。
「…ごめんな」
誰に言うわけでもなくイルカはぽつりと呟いた。自らが作り出した罪から逃げ出すつもりはない。ナルトにこんな生活をさせていることは申し訳ないと思っているが、今のイルカにはここにナルトを居させることしか出来なかった。
何も知らないナルトはイルカに言われるままに歌姫として酒場で歌を歌う。楽しい歌を、しあわせな歌を。けれどそのどれもが心からの歌ではないようにイルカは思っていた。
けれど今日初めてナルトが歌った歌は今まで聴いた歌のどれよりも感情がこもっていて、イルカですらナルトの歌に拍手を送りそうになった。
ただ一人のためだけに歌った『恋の歌』に――――。
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