「カカシせんせー!」
浴室のほうで愛しい子供の声がして、カカシははいはい、と呟きながら腰を上げた。
一緒にお風呂に入ろうと誘ったら「は?調子に乗るなよ」と冷たい声で言ったくせに、今は甘ったるい猫なで声。それも、人前限定の呼び方で、二人きりのときに使ってくるときは絶対に何かさせられる。
ご飯作って、掃除して、洗濯して、それならまだいい。時には少し手を伸ばせば届きそうな本を取ってと強請られたり、些細なことで呼びつけられる。
最初は嫌だと思うどころか、にやけ顔でほいほいお願いを聞いていたけれど、最近は少し自分が可哀想になってきた。それでもナルトの頼みを断ることはできない。
やっと手に入った大切な恋人の願いなのだから。
「なに?ナルト」
がちゃ、とカカシが浴室のドアを開けると、ナルトは拾い湯船の中でゆったりと足を伸ばして寛いでいた。
「頭、洗ってってば」
にっこりと微笑めば自分が言うことを聞くと思って…と思いながらもナルトに強請られた通りにカカシは浴室に入ると、シャンプーを手にとった。ナルトは湯船に浸かったまま、頭だけカカシの方へ差し出した。
何でもするから恋人になって、とみっともなく縋ったことは記憶に新しい。
ナルトは少し考えて、しばらくしてなにか思いついたように企んだ笑みを浮かべると、 朗らかな笑みで「いいぜ」と言って恋人になってくれた。
あのときはあの笑みの意味が全くわかっていなかったけれど、数週間経つうちにカカシもようやくその意味がわかってきた気がする。
ナルトから好きという言葉ももらっていないし、恋人同士のスキンシップも、キス止まり。
一度服の中に手を突っ込んだら、低い声で「あばら二、三本くらいいっとくってば?」と低ーい声で牽制された。本気で押さえつければいけたかもしれないが、そんなことをしたらあとが怖い。あばらどころの話ではなくなるのは目に見えている。
ナルトは本当に自分を恋人だと思っているのだろうか。そうでなければよくて上司、もしかしたら、世話係か下僕とでも思っているのかもしれない。
「おーい、声に出てるぞ」
ぼんやりとしながらナルトの頭を洗っていたら、どうやら口に出ていたらしい。じとっとした目でナルトがカカシを見つめていた。
「お前が、何でもするって言ったんだってばよ」
ナルトは大人しく髪を洗われながら呟いた。一体どこから不満を口にしてたのだろう。
「…うん、そうだね」
「不満そうだな」
「別に不満なんてないよ。ほんと」
恋人なってくれて、こんな風に時間を共有できるのだから。
そうだ、今はそれだけで十分だ、とカカシは自分に言い聞かせる。
「不満がないっていう口ぶりじゃなかったってばよ」
青い瞳がカカシを捉える。吸い込まれそうなくらい青い瞳。
いっそ、この瞳に本当に吸い込まれてしまいたいとすら思った。ずっと、永遠にナルトの瞳に映ることが出来るなら――。
カカシがそんなことを思っていると、不意に唇に柔らかいものがあたる。
はっとして顔を上げてみると、ナルトが少し頬を赤らめながら唇を押さえていた。しまった、と思ったときにはもう遅い。
「…ってめ」
頭を泡だらけにしたままナルトが立ち上がると、どこから取り出したのかクナイを投げつけてきた。
間一髪、逃げ切ってカカシはほっと息をつく。
それにしても、風呂場にクナイを持ち込むだなんてよほど信用されていないらしい。だが、思わずナルトにキスしてしまったことを考えたらそれを責めることも出来ないかった。
「急になにするんだってば…っ!」
「ナルトの顔見てたら、ついふらふら~っと…いいでしょ、恋人同士なんだから」
つい開き直ったような言い方をしてしまう。その言葉を聞いたナルトはぶるぶると震えていた。
(やばい、オレ殺されるかも)
今まで一度だってナルトに刃向かうような事を言ったことはなかったのに、今日はなんだか凶暴な気分だ。とはいってもキス程度のことしかできない上に、ナルトの機嫌を損ねたことに内心びびりまくっているカカシの『凶暴な気分』なんてたかがしれている。
すでに謝ってしまおうかな、とすらカカシは考えていた。
「こ…心の準備ってもんが必要なんだってばよ」
ごめん、と喉のあたりまで出かかっていたカカシだったが、ナルトのぽつりと呟いた言葉を聞いて口を閉ざした。
赤くなっていたのは怒りではなくて、クナイを投げたのは照れ隠し。
それがわかったとたん自分の中に渦巻いていたドロドロとした感情がどんどん消えていく。
ざぶん、とナルトが勢いよく湯船に戻った。
「…ほら、早く流せってばよ」
照れているのか唇を尖らせて、少し不機嫌そうにナルトはカカシに命令をする。
「うん、じゃあ目をつぶって。泡が目に入るといけないから」
「……キスとか、すんなよな」
先ほどの件もあってナルトは少しカカシを警戒しているようだ。そんなこと考えてもいなかったのに、言われてしまったらなにかしなければ失礼かもしれないと思ってしまう。
「ほら、早く目を閉じて。いつまでも流せないでしょ」
頷かなかったカカシにナルトは少し疑いの眼差しを向けていたが、しばらくして大人しく目を閉じた。
熱くないように調節したシャワーのお湯でナルトの頭についた泡を流し始める。
「熱くない?」
「うん、ちょうどいいってば」
気持ちよさそうな声でカカシの問いかけに答えるナルトの姿はとても無防備だ。こんな姿を見て何もしないというわけにはいかない。カカシは妙な使命感に捕らわれていた。
お湯を頭にかけながら、カカシはナルトに気づかれないようにそっと唇をナルトのそれに近づける。
どきどきと心臓が早鐘を打っている。もしかしてナルトに聞こえてるかもしれないと思い様子を窺ってみたがどうやらナルトは気づいていないようだ。
いける、そう思ったときだ。ナルトの唇まであと数センチというところで、ナルトがぱちりと目をあける。
一瞬時がとまった気がした。ばっちりとナルトと目が合う。一度その瞳に捕らわれてしまったらもう逸らすことはできない。
カカシは心の中で冷や汗を流す。何かごまかす方法はないかと考えながら。
だが、次の瞬間ナルトが怒りなど微塵もないような顔でにっこりと笑うと、カカシはあばらが何本か折れることを覚悟した。
終